出版社/著者からの内容紹介
グルジアの国民的画家、ニコ・ピロスマニ日本初の画集、待望の刊行!
●カラー図版189点収録
●主要展覧会履歴、ピロスマニ略年譜収録
●孤高の画家
をめぐる15エッセイ
あがた森魚/池内 紀
/小栗康平/児島康宏/小宮山量平/スズキコージ/谷川晃一/寺村摩耶子/はらだたけひで/堀内誠一/南 椌椌/森口 陽/山口昌男/四方田犬彦/ルイ・アラゴン
●カラー図版189点収録
●主要展覧会履歴、ピロスマニ略年譜収録
●孤高の画家
あがた森魚/池内 紀
内容(「BOOK」データベースより)
日本初の画集、待望の刊行!カラー図版189点収録。主要展覧会履歴、ピロスマニ略年譜収録。孤高の画家
をめぐる15エッセイ。
著者について
ニコ・ピロスマニ
1862年、グルジアのカヘティ地方の農村ミルザーニに生まれる。父母を相次いで亡くし、8歳のとき首都ティフリス(現トビリシ)に出る。10歳~12歳ごろ、親戚の貴族カランタロフ家にひきとられた。幼いころから読書や絵を描くことを好み、長じて印刷工などの職に就いたが、28歳のとき、カランタロフ家の若い未亡人への失恋をきっかけに家を出たと伝えられる。1890年以降、鉄道員として4年ほど勤務。職権を利用してコーカサス地方をあまねく旅した。その後、友人とともに雑貨店をひらき成功をおさめるが、束縛を嫌う気質もあいまってか商売に身が入らず、長くは続かなかった。以来、絵筆を片手に放浪の生活に入る。居酒屋の壁や看板に絵を描いては、その報酬として酒や食事を得た。1912年、ペテルブルグからやってきた若い前衛芸術家たちに見出され、一躍脚光を浴びる。翌年モスクワで行われた展覧会に作品が出品され、グルジア画家協会会員にも名を連ねるなどしたが、安住を求めない気ままな暮らしぶりが変わることはなかった。やがて大戦の影がさし、絵の注文が減るとともに生活は困窮する。グルジア語の発音に近い表記だとニコロズ・ピロスマナシヴィリ。愛称ニコ、ニカラ。
独自の手法により、人物や動物、農村風景、伝説などを透徹した視線で描いた作品群は、没後も国内外から高い評価を受け、現在もグルジアを代表する国民的画家として、人々から親しまれている。
日本では、伝記映画『ピロスマニ』(ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督、1969年
)、短編映画『ピロスマニのアラベスク』(セルゲイ・パラジャーノフ監督、1985年
)が公開されたほか、旧西武美術館
で大規模な回顧展(1986年)がひらかれた。
1862年、グルジアのカヘティ地方の農村ミルザーニに生まれる。父母を相次いで亡くし、8歳のとき首都ティフリス(現トビリシ)に出る。10歳~12歳ごろ、親戚の貴族カランタロフ家にひきとられた。幼いころから読書や絵を描くことを好み、長じて印刷工などの職に就いたが、28歳のとき、カランタロフ家の若い未亡人への失恋をきっかけに家を出たと伝えられる。1890年以降、鉄道員として4年ほど勤務。職権を利用してコーカサス地方をあまねく旅した。その後、友人とともに雑貨店をひらき成功をおさめるが、束縛を嫌う気質もあいまってか商売に身が入らず、長くは続かなかった。以来、絵筆を片手に放浪の生活に入る。居酒屋の壁や看板に絵を描いては、その報酬として酒や食事を得た。1912年、ペテルブルグからやってきた若い前衛芸術家たちに見出され、一躍脚光を浴びる。翌年モスクワで行われた展覧会に作品が出品され、グルジア画家協会会員にも名を連ねるなどしたが、安住を求めない気ままな暮らしぶりが変わることはなかった。やがて大戦の影がさし、絵の注文が減るとともに生活は困窮する。グルジア語の発音に近い表記だとニコロズ・ピロスマナシヴィリ。愛称ニコ、ニカラ。
独自の手法により、人物や動物、農村風景、伝説などを透徹した視線で描いた作品群は、没後も国内外から高い評価を受け、現在もグルジアを代表する国民的画家として、人々から親しまれている。
日本では、伝記映画『ピロスマニ』(ゲオルギー・シェンゲラーヤ監督、1969年
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
ピロスマニ,ニコ
1862年、グルジアのカヘティ地方の農村ミルザーニに生まれる。父母を相次いで亡くし、8歳のとき首都ティフリス(現トビリシ)に出る。10歳~12歳ごろ、親戚の貴族カランタロフ家にひきとられた。幼いころから読書や絵を描くことを好み、長じて印刷工などの職に就いたが、28歳のときカランタロフ家の若い未亡人への失恋をきっかけに家を出たと伝えられる。1890年以降、鉄道員として4年ほど勤務。職権を利用してコーカサス地方をあまねく旅した。その後、友人とともに雑貨店をひらき、成功をおさめる。ところが束縛を嫌う気質もあいまってか商売に身が入らず、やがて店をたたむはめに。以来、絵筆を片手に放浪の生活に入る。居酒屋の壁や看板に絵を描いては、その報酬として酒や食事を得た。1912年、ペテルブルグからやってきた若い前衛芸術家たちに見出され、一躍脚光を浴びる。翌年モスクワで行われた展覧会に作品が出品され、グルジア画家協会会員にも名を連ねたが、しかし放浪の暮らしはその後も変わることはなかった。やがて大戦の影がさし、絵の注文が減るとともに生活は貧困を極める。1918年、町の片隅で死去。独自の手法により、人物や動物、農村風景、伝説などを透徹した視線で描いた作品群は、没後も国内外から高い評価を受け、現在もグルジアを代表する国民的画家として、人々から親しまれている。愛称はニコ、ニカラ。グルジア語の発音に近い表記ではニコロズ・ピロスマナシヴィリ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
1862年、グルジアのカヘティ地方の農村ミルザーニに生まれる。父母を相次いで亡くし、8歳のとき首都ティフリス(現トビリシ)に出る。10歳~12歳ごろ、親戚の貴族カランタロフ家にひきとられた。幼いころから読書や絵を描くことを好み、長じて印刷工などの職に就いたが、28歳のときカランタロフ家の若い未亡人への失恋をきっかけに家を出たと伝えられる。1890年以降、鉄道員として4年ほど勤務。職権を利用してコーカサス地方をあまねく旅した。その後、友人とともに雑貨店をひらき、成功をおさめる。ところが束縛を嫌う気質もあいまってか商売に身が入らず、やがて店をたたむはめに。以来、絵筆を片手に放浪の生活に入る。居酒屋の壁や看板に絵を描いては、その報酬として酒や食事を得た。1912年、ペテルブルグからやってきた若い前衛芸術家たちに見出され、一躍脚光を浴びる。翌年モスクワで行われた展覧会に作品が出品され、グルジア画家協会会員にも名を連ねたが、しかし放浪の暮らしはその後も変わることはなかった。やがて大戦の影がさし、絵の注文が減るとともに生活は貧困を極める。1918年、町の片隅で死去。独自の手法により、人物や動物、農村風景、伝説などを透徹した視線で描いた作品群は、没後も国内外から高い評価を受け、現在もグルジアを代表する国民的画家として、人々から親しまれている。愛称はニコ、ニカラ。グルジア語の発音に近い表記ではニコロズ・ピロスマナシヴィリ(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)



